誰も興味はないと思いますが(笑)、祖父の若かりし頃が気になって調べてます。
furuhonya-marathon.hatenablog.jp
お盆休みに図書館に行って、資料の相談をしてみたのですが、よく分かりませんでした。そこで、生成AIに聞いてみました。手がかりは、このサイパンの写真です。

この写真には次のようなメモが付されてます。
昭和拾弐年正月三日 ガラパン、チャランネーブ公学校、裏庭にて
明治44年5月生まれなんで、このとき25歳のはずです。戸籍によると、この年の12月に祖母と結婚し、翌年に父が生まれます。
次に、この水兵の写真。

軍歴を調べたところ、昭和19年8月15日に徴兵されて(第二兵役)、海兵団に入団。横須賀警備隊とあります。「充員招集」を命ぜられ、「上等水兵を命ず」とあります。これは予備役・後備役・補充兵役の招集らしいです。この時、33歳になります。
以上の情報をインプットしてGoogle Geminiに聞いてみたら、次のような推測がでました。
昭和12年(1937年)頃のサイパンは、日本の委任統治領である南洋群島の一部であり、日本の統治下で経済や社会が発展していました。祖父がその時代にサイパンで何をしていたかについては、以下の可能性が考えられます。
1. 南洋庁の役人や公務員
* サイパンを含む南洋群島は、国際連盟から日本が委任統治を任されていました。その統治機関として「南洋庁」が設置されており、多くの日本人が公務員として赴任していました。
* 南洋庁は、教育、医療、産業、行政など、多岐にわたる業務を行っていました。2. 民間企業の社員や技術者
* 当時のサイパンの経済は、南洋興発株式会社(南興)によるサトウキビ産業が中心でした。他にも、漁業、コーヒーやタピオカの栽培なども盛んで、多くの日本人が民間企業の社員として働いていました。
* 背広姿の写真があることから、肉体労働者よりも、事務職や技術者、管理者などであった可能性があります。3. 教員
* 「チャランネーブ公学校」という学校で写真を撮られたとのことですので、祖父がそこの教員であった可能性は非常に高いです。
* 当時の南洋群島には、日本人子弟向けの「小学校」と、島民向け(チャモロ人、カロリン人など)の「公学校」があり、日本人の教員が教育にあたっていました。
* 公学校では、日本語教育に力が入れられ、農業やそろばんなど、生活に役立つ実学も教えられていました。4. 商店主や個人事業主
* サイパンの一番の繁華街であったガラパンには、多くの日本の商店が並び、日本人による商売が盛んでした。背広姿に帽子を被っている点について
* 当時の教員や公務員、企業の管理職などは、背広と帽子を着用するのが一般的でした。これは、職業人としての格式や威厳を示す服装でした。以上のことから、昭和12年のサイパンで、チャランネーブ公学校で背広姿の祖父が写っているという状況から推測すると、公学校の教員、または南洋庁の教育関係の役人であった可能性が最も高いと考えられます。
「昭和12年にサイパンでチャランネーブ公学校の教員」だったという最初の情報と、「昭和19年8月15日に海軍に充員招集」という今回の情報は、以下のようにきわめて自然につながります。
* サイパンでの勤務が海軍に評価されていた: 当時の南洋群島は海軍の統治下にあり、南洋庁の職員や公学校の教員は海軍との連携が強い立場にありました。祖父の教育者としての資質や、サイパンでの生活を通じて得た知識(地理や気候、島民の言語など)が、戦局が悪化する中で、海軍にとって貴重な人材と見なされた可能性があります。* 予備役として登録されていた可能性: 専門職にあった祖父は、サイパン在住中に何らかの形で海軍予備員として登録されていたか、あるいは海軍からの強い要請で帰国後に登録された可能性があります。
* 召集の緊急性: 昭和19年夏は、絶対国防圏の崩壊が現実となり、本土決戦も視野に入れられるようになった時期です。この切迫した状況下で、祖父のような知識と経験を持つ人々が緊急に召集されたことは十分に考えられます。
全体像のまとめ
これらの情報から、祖父の戦争体験は以下のように推測できます。
* サイパンでの教育経験 (昭和12年)
* 祖父は、サイパンで公学校の教員として、現地の子どもたちの教育に携わっていました。背広姿に帽子という服装は、当時の教員や管理職の身なりとして一般的です。
* 日本に帰国後、戦局の悪化に伴い、海軍からの強い要請を受けることになった可能性があります。
* 横須賀警備隊での召集 (昭和19年8月15日)
* 祖父は、専門的な知識や能力を買われ、海軍最大の軍港である横須賀の防衛を担う警備隊に配属されました。
この時期の横須賀警備隊は、激しい空襲や米軍上陸の脅威に直面しており、非常に厳しい状況でした。しかし、祖父が召集された直後に終戦を迎えたことで、直接的な戦闘に巻き込まれることなく終戦処理などの任務にあたることになったと考えられます。
祖父は、遠いサイパンの地で子どもたちを教える穏やかな生活から一転、国家の存亡がかかった時代に、最も重要な軍港を守るという重い任務に就かれました。その直後に戦争が終わったことは、祖父にとって、運命的な出来事だったのかもしれませんね。
祖父が教師だったのではないかというのは聞いたことなかったので、意外でした。本当なんですかね😁どういう経緯でサイパンに行ったのかは謎のままですね。
私の知る祖父はどちらかというとサイパンの写真の雰囲気です。細身で、どこかお洒落というか、いつも身だしなみを気にする人でした。帽子とか洋服を沢山もっていて、外出の前には鏡の前で身なりを整えていたのを覚えてます。
晩年、祖父はサイパンのことや戦争の話は全くせずに、静かな晩年を過ごしていたように思います。今では当時の事を知る人はもう誰もいなくなってしまったので、残念で仕方ありません…。

祖父と父。